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支えてもらうことも確かな喜びがある(2014.9.30)
2014年9月6日、7日に日本腹膜透析医学会を山形市で開催させていただいた。都会の開催では1500人が集まる、透析関連でも2番目に大きな学会である。ところで、東北の小都市山形での全国学会は、通常の6割集まればまずまず成功だと言われている。だからまずは900人の参加を目標として、1000人集まれば大成功だと事前に話し合っていた。ふたを開けてみたら1200人をこえる大盛況、全国からのお客様に喜んでいただくことが出来た。
これまでいくつか全国規模の学会・研究会をさせていただいたが、今回は特別な感覚がある。今回の大会は自分でも呆れるくらい自分は何もせず、伊東先生を中心とした事務局の皆がほとんどすべてをやってくれたのだ。だから初日に1000人を超えたときも、(これで借金しなくてもいいなと)安堵したのだが、「おめでとうみんな」という妙な感覚だった。同時に「人に支えられるのは有り難いもんだな。」と思った。しかしその時までに、どれだけたくさんの人に支えられてきたのかを、どれだけ自分はわかっていたのだろうか。
医療というものは自分が揺るがない立場を取り、他者を支えるものであると若い頃は思っていたように思う。だからそうあれないこと、そうできなくなるかもしれないことに対して恐れを抱いたのだと思う。攻撃的であり、このとき見ているのは他者ではなく自分だ。けれど最近、自分というものは揺らぐものだし、いい加減で、だらしないところもたくさんあるのだと、これはもういよいよあきらめざるを得なくなってきた。そうなるといつの間に周りには「そういうこともあるよね。」「まぁまぁかもね。」となる。そして「だから今のままじゃダメなんじゃないか。俺も同じだけど、それが嫌なら変わっていかなきゃダメなんじゃないか。」となる。
医者になりたてのころに比べると明らかに体力が落ち、集中力が続かない。そんなことはないと思っていたのだが、いよいよ認めざるを得なくなってくると、「まぁそれも悪くないか。」と思うようになってくる。強くないことも、支えられることもそんなに悪いことではないのだと思うようになった。
腹膜透析山形大会の大成功ありがとうございました。ご支援くださった皆様に心よりお礼を申し上げます。矢吹パワーの団結力の強さと優しさにスペシャルサンキュー。
自分の力ではどうにもならないことがある(2014.4.25)
ここ数週間持病の頸椎症が再発し、ずいぶん不便な思いをしている。単なる寝違いだと思っていたのだが、だんだんひどくなり左肩から前腕にかけての痛みと、指先までしびれるようになってしまった。痛み止めを飲み、首にカラーを巻いて下を向いて歩いている。上を向こうとすると肩が苦しくなるからだ。明らかに頸椎ヘルニアの症状だと、頸椎専門の友人が太鼓判を押してくれた。だけどあんまり慌てていない、同じようなことが20年くらい前にもあったからだ。あのときは右側だった。
その時もきっかけは寝違えだった。痛みがひどくなり、夜寝ていて体の向きを変えられず、どんな格好で寝ても痛かった。整形外科を受診してMRIをとることになった。MRIをやったことのある人なら分かるだろうが、磁気を遮断する密室に閉じ込められ、検査台に横にされ頭部を固定され、かつアイスホッケーのキーパーのようなマスクで顔を覆われて、狭い検査機械のドームの中に入れられるのだ。パニック障害があり閉所恐怖気味の自分は、検査室に入った時になんとなく嫌な予感がしたのだが、案の定数分でパニック発作を起こしてしまった。検査時間はたったの20分だと教えられていたが、その20分が我慢できなかった。手に持たされた風船のような形をしたナースコールを必死で押して助けを求めた。ぐったりして密室を出ると、艶っぽい後輩の放射線医から「先生で3人目だよ。若い男は敏感ね。フフン」と鼻で笑われた。
痛みはなかなか治まらず、右手の人差し指はずっと冷たくしびれたままだったし、検査も満足に受けることができない自分がショックだった。ちょうどその頃、病院内でMRSA(多剤耐性ブドウ球菌、院内感染の原因菌の1つ)の感染症が多発しており、医療スタッフにキャリアがいるのではないかという事になり鼻腔の細菌検査が実施された。自分の鼻腔内からはたくさんのMRSAが検出され、除菌が必要になった。イソジン(よく使われるうがい薬)でうがいをして、イソジンゲルで鼻腔内を洗うのだが、首が痛くてうがいができない。けれど、自分のせいでMRSA感染症を拡大させたかもしれないという自責の念に、何としてもうがいをしなければと思った。横になって妻に口の中にうがい液を入れてもらってうがいをし、横に置いた洗面器に出した。そんな恰好でやっていたから時々むせた、あわてて横を向いて洗面器にうがい液を出すと首に激痛が走った。イソジンは鼻の中で溶けて黄色い鼻水になり、むせたのか涙まで出てきた。
パニック発作に怯え、肩の痛みと自責の念に苛まれ、黄色い鼻水を流した日が数か月続いたように記憶している。しかし、あるいはそれは数週間だったかもしれない。そんな日々を繰り返すうちになんとなく「自分の力ではどうにもならないことがある」と思うようになった。諦めたのだった。絶望的な日々の連続には、きっと何か意味があるに違いないなどとその時考えてはいなかったと思う。ただ諦めるしかなかったのだ。今になってみると、あの日々にはしっかりした意味と必然性があったのだと思える。世の中には自分の力ではどうにもならないこと、諦めざるを得ないことがたくさんあるのだとその時知った。
今回はあの時とは違う左側で、おまけに寝違えたのはダルビッシュが寝違えで開幕戦を避けたと発表されたのと同じ日だった。「ダルビッシュと同じかーっ」と意味のない優越感に浸ったものの、数日後のダルビッシュは初勝利を挙げ、いまだに自分はカラーを巻いて下を向いている。首の痛みは改善されず、おかげでこの週末は予定を全てキャンセルして自宅療養になった。GWに予定されているコンペも、出かける予定もすべてキャンセルになるだろう。すごく残念だし、友人たちとの約束も破ることになり申し訳ない気持ちになる。けれど、そんな風にしてできたエアポケットの様な時間には、きっと大きな意味があるのではないかと今回は感じている。きっとこれは必然なのかもしれない。
あるがままの心(9) 生かされることを知る
パニック障害の経験は、神経質で人に求めるだけだった自分に、少し違う自分の存在を気づかせたのかもしれません。一番苦しかった学会出張先の発作のとき、自分のことよりも両親や家族のことをまず考えたという経験は、自分は人と関係のなかで生かされているのだという感覚でした。
その人を流れる時が横の糸ならば、それに交わる縦の糸は人との縁。縦の糸が自分を貫く天命だとしたら、それをつなぐ横の糸は人の縁。「織りなす布はいつか誰かを暖めうるかもしれない。」と歌ったのは中島みゆきさんです。自分の糸が切れないかどうかに心をとられるのではなく、人とどんな布を織るのかを考えることが大切です。他人を尊重し布を織り上げることで、自分が活かされていることに気がつくのではないでしょうか。
これまでのお話で、もしかしたら皆さんは私がいつも「明らめて」晴れ渡っているように思われたかもしれません。けれどそんなことはありません。相変わらず自分の不調を気に病んだり、他人に自分の考えを押しつけたりすることがよくあります。そんな気持ちの沈んだ日には、せめてきちんと挨拶しようだとか、落ちているゴミは拾おうだとか、決めごとを一つ作ります。ちっぽけなことでもその一日やりとおすことが出来れば、自分の中が少し暖まるのがわかります。
パニック障害の経験は自分にとってはなくてはならないものだと今では思えます。それは、そのおかげで自分がまったく違う人間になれたからという意味ではありません。きっと根っこは何一つ変わっていないのだと思います。ただ物の見方と考え方が少しだけ変わったのだと思います。自分のなかの何かが少し変わるだけで、見えてくる風景はずいぶん違ったものになるのです。
あるがままの心(8) ~あきらめるということ~
体調がすぐれず気持ちも湿りがち、きっとどこか悪いにちがいないと、いろいろ調べたけれどどこも悪いところが見つからない。そんな時はまず大病を見落としている可能性は低いので、あちこち病院に行くのではなく、とりあえず自分の本来の目的に向かって歩き出しましょうとお話ししました。
若いときほど体力がない、肌の張りがなくなった、忘れっぽくなったなど、歳をとるとさまざまな不都合が出てきます。(私も最近物忘れが・・・) 生きると言うことは、若さや、様々な何かを失っていくということなのかもしれません。自分はいつまでも若々しくないと気が済まない。自分はいつも完璧でなければ気が済まない。これでは悩みは尽きることはありません。
「あきらめる」という言葉があります。現代ではこの言葉は絶望するとか、望みを捨てるというネガティブな意味に使われることが多いようです。しかしもともとは「明らめる」と書くのだそうです。今の自分の状況、あるがままの自分の姿が明らかにして心が落ち着き、悩みが晴れ、明日に向かう新しい望みが生まれるという意味です。「諦める」も同じ意味があり、「諦観」という言葉は物事の本質を見極める、悟るという宗教的な世界を連想させる言葉です。
誰もがいつも健康で、やる気に充ち満ちている訳ではありません。健康で元気に見えるひとでも、心にいろいろな不安や悩みを抱えています。では、どこがその人の在り様を変えてしまうのでしょうか。人と自分を比べて、なりたい自分の姿から遠い自分にこだわって絶望してしまってはいけません。今の自分のあるがままの姿を「明らめる」ことで、自分が本当に望んでいるものは何か、そして今の自分がやるべきことは何かが明らかになってくるのではないでしょうか。
あるがままの心(7) ~とらわれない心~
大切なものの順番を考えるということは、自分が直面する物事の本来の目的(本質)を考えることにつながります。たとえば人と話をするとき、最も大切なことは自分が伝えたい内容であり、うまくしゃべれないのではないかとか、声が震えて変だと思われないかなど自身の不安ではありません。自分自身の不安にとらわれないで、目的本意の行動をとることが大切だと森田療法は教えています。
高校時代は演劇部に所属しておりましたが、幼少よりあがり症のところがあり、舞台の上で台詞を忘れて立ち往生する自分を想像しては蒼くなっていました。けれど目的本意の考え方をするようになり、今では講演会など本番の方がかえって力が出せるようになりました。不思議なものです。
だれでも年をとると体のあちこちに不調が出てきます。年のせいと思っていたら本当の病気だったということもあるので、気になる症状があるときには一度はきちんと調べた方がよいでしょう。しかし何も引っかかるところがなかったら、「どこか悪いに違いない。」とドクターショッピングをするのではなく、「こんなものかな。」と思いながら、自分が本当にやりたいことは何か、それを明らかにして前に進むことが大事です。
あるがままの心(6) ~大切な順番~
パニック発作がよく起こった頃はいつも精神安定剤を背広のポケットにいれていました。発作自体は15分ぐらいで治まるので、いつも決まって飲むというわけではなく、持っているから安心だというおまじない的な意味が大きかったようです。ところが、ある学会出張の時に安定剤を忘れ、案の定、講演を聴いている最中に発作が起こってしまいました。これはもう大パニックでした。今考えるとこれが最大のピンチであり、最大の転機だったように思います。
発作はなかなか治まらず、何度も医務室に行こうと思いました。けれどその時、「今すぐ逃げ出すことは止めよう。今の講義に集中しよう、この講義が終わったら家へ帰ってもいいぞ。」そう自分を励まして、講義内容を一言も漏らすまいと必死にノートをとりました。ノートに集中すると不安はだんだんと治まり、ノックアウト寸前で山形に帰り着きました。
あの時医務室に駆け込まなかったのは、もしそうしたならば医者としてはもうだめかもしれないなと思ったからです。自分が失うものよりも、自分を医者にすることを夢見た両親の落胆や、家族の動揺をなんとしても避けたかったからです。
人は病むとき人生の目標や仕事、それまでの家族と友人に囲まれた日常を喪失するかもしれない、そんな予感に怯えます。あの時、悩みを深くする人は根が前向きで自分よりも周りを気遣う優しい人ばかりなのだと気がついたのです。悩んだ人や病んだ人はその分だけひとに優しくなれると以前書いたのはこんな経験からです。大切なものには順番があるのだと思います。もし一番大切なものを得ようとしたら、何をなくしても前に進まなければいけないときがある。あれもこれも大切だと、喪失の不安に立ち止まってしまうのは欲張りなのかもしれません。
あるがままの心(5)
パニック障害が脳の異常興奮が原因で起こる病気だと知り、そのことで症状が落ち着いたのは発作から10年がたった頃でした。その間に自分を最も苦しめたのはパニック発作そのものではなく、いつどこで不安発作が起こるのかという不安、「予期不安」でした。
当時の私は「不安発作は二日酔いの時に列車にのると起きる」「車がトンネルの中で渋滞すると起きる」不安発作を恐れるあまり、こんなこだわりをいくつも作ってしまっていました。調子が悪くなった時に、逃げられない自分を想像すると恐怖感に襲われ、人混みや遠いところへの外出を避けるようになりました。このように予期不安から外出ができなくなり、社会生活に支障を来すようになることを広場恐怖症と言います。
とにかく自分の中から不安を消し去りたい、どうしたら不安を忘れられるだろう、そんなことばかりを考えていたように思います。しかし、考えれば考えるほど注意は不安発作に向き、予期不安はいよいよ増すばかりでした。そんなとき偶然に本屋である一冊の本が目にとまりました。岩井寛先生の「人はなぜ悩むのか」でした。
岩井先生は幼少から神経質(症)に悩み、大学時代に美学を学んだ後精神科医となった。末期癌に冒され両目の視力を失いながらも、自らの運命をあるがままに受け入れて、口述筆記ながら名著「森田療法」を書き上げました。岩井先生の壮絶な生き様と、そこに描かれている多くの悩める患者は、まさに自分自身であることに驚きました。
森田療法では、不安を消す努力を止め、不安は不安としてあるがままに受け入れて、自分の興味やなすべきこと行う目的本位の行動が、不安を自然に小さくしていくと教えています。24歳の冬、私は不安にどうすることもできず、ギターを片手に2時間歌い続けました。ただ歌い続けるためだけに、自分の来し方を懸命に思い出していました。きっとその目的本位の行動が、不安を鎮めたのだと思います。
あるがままの心(4)
24歳の冬、僕は何の前触れもなくパニック発作に襲われました。押し寄せる不安になすすべもなく、偶然ギターを手に取り歌い始めました。それは不安を紛らわそうとするためではなく、自分に何が起こったのかを解き明かすためでもなく、ただ唄うためだけの記憶の描写でした。そして「これはきっとこれまでのお前を振り返れと、誰かが俺に教えてくれているんだ。」というフレーズで一人語りを終えました。2時間歌い続け、歌い終えたときは静かな気持ちになっていました。
当時の僕には悩みや心配は殆どなく、勉強も試験も嫌いではなかったので、不安になる理由が自分の心にあるとはどうしても思えませんでした。けれど歌い続けるうちに、自分が人を傷つけた記憶がたくさん蘇ってきました。自分は人に優しくしなかった。その自分が、今度は弱り切って誰かに助けを求めている。「それはあんまり虫がいいじゃないか。」「君はこのままではいけないよ。」と誰かが自分を諭しているのだとその時思いました。
現在パニック障害という病気は、生命の危機を察知する脳の一部が異常興奮して、不安発作を引き起こす脳機能障害と考えられています。しかし私が発作に襲われた1986年ころは、パニック障害は一般的にひろく知られておらず、不安神経症の一部いわゆる「心の病」と考えられていました。初めての発作から丸10年経った1996年、自分の症状がパニック障害という病気であり、脳細胞の異常興奮が原因だと知りました。その時「なんだ、脳の病気だったのか。」と肩の荷が下りたような気持になったのを覚えています。
今でこそ、パニック障害は自分にはなくてはならない経験だったと思えるようになりましたが、10年はとても長く厳しい日々だったように思います。その10年の間に自分を苦しめたのは、どこか病んでいると他人に知られた時に自分が失うであろう何かであり、どこでまた不安がやってくるのかという「予期不安」でした。
あるがままの心(3)
悩んだ人はその悩んだ分、病んだ人はその病んだ分、他人に優しくなれるのではないかと思います。悩みなど無いにこしたことはないし、病気はなにも好きでなるわけではありません。けれど自分の力ではどうにもならないことは、往々にして起こります。だからたとえどんな状況でも、素直に前向きでいることが大切だと思えるようになったのは、24歳の冬に自分に訪れたパニック発作のおかげだと今は思っています。
医師国家試験を翌春に控えた冬の朝、僕はいつも通り絶好調で国家試験の問題集を解いていました。一瞬目がチカチカしたかと思うやいなや、突然動悸がして胸苦しくなり、何の脈略もなく「このまま死んでしまうのではないか。」と不安感に全神経を占領されました。友人を訪ね自分の変調を告げましたが、友人は「とても具合悪そうだ。」と一言言うだけで、もとより自分と同じ医者の卵になすすべが無かったのかもしれません。
部屋に戻った時には津波のような不安感は少し収まっていました。しかし、「いったい何が起こったのか」、「いつまたあれがやってくるのか」、「今度こそどうにかなっちまうのではないか。」と、不安があとからあとから湧いてきていました。体調が悪いから休めばきっと良くなるに違いないと、部屋を暗くしてストーブをつけたまま、1日半布団の中にいました。
途中何度も目を覚ましましたが、いつもの自分では無いことはすぐにわかりました。どうすることもできず絶望的な気分で布団を出ました。何かの拍子に部屋にあったギターを手にとりました。そして歌い始めました。自分に起こった大事件、自分の気持、子供の頃の思い出、親のこと友人のこと、人に助けられたこと、人を傷つけたこと、頭に浮かんでくることすべてを唄いつづけました。それは吉田拓郎の「イメージの詩」のような、とりとめのない一人語りでした。
あるがまま受けいれるとは?(2)
「あるがままの心」とは、仕事や人間関係、自分自身の体調や気持などすべてのことをあるがまま受け止める気持です。「こんなに頑張っているのに評価してもらえない。」「自分はただ嫉妬しているだけなのかも・・・」他人とのいさかいや自分自身の葛藤など、認めたくないこともあるがままに受け入れる心です。自分にとって良いことは受け入れやすいですが、都合悪いことすら受け入れろというのはちょっと難しいかもしれませんね。
「他人から認められて活き活き毎日を過ごしたいけど、できない自分が情けない。」「本当は、伸び伸びして素敵な友人と同じようにしたいのに・・・」どうしても自分の嫌な部分が目について、他人の目が気になります。でも大事なことは、充実した毎日を送りたい、友人のように活躍したいという気持ちは最初にあって、それはとても前向きでまっすぐな気持だということです。前向きな気持ちが強いほど、それができない時の落胆が大きくなるのです。
あるがままの心は、わが国で発達した精神心理療法である「森田療法」の中でとりあげられました。「森田療法」に関する書籍は現在でもたくさん書店にならび、難しい時代をどのように考え、生きていくかの指南書になっています。あるがまま受け入れ、もともとの前向きな気持ちを大切にする「目的本位の考え方」をすると、周りからの評価や自分の中の卑屈なささやきが不思議と聞こえなくなります。
悩んだことがない人は悩む人の気持ちはわからない。病んだことのない人は病む人の気持ちがわからない。悩んだ人、病んだ人はその分だけひとに優しくなれるのだと思います。自分はある時期まで、悩む人、病む人の気持に鈍感で、「あるがままの心」から遠かったように思います。そのことに気がつくきっかけになったのが、24歳の冬の出来事、パニック発作でした。
素直な心で考える(1)
みなさんこんにちは。矢吹病院副院長の政金生人(まさかねいくと)と申します。生まれは新潟ですが、山大入学後、山形暮らしは早29年目、今では「・・・だべした。」「・・・だがっす。」を連発する生粋の山形人になりました。
山大卒業後は腎臓病、特に人工透析を専門にしてきました。透析患者さんは同じ施設に週3回通院しますから、医者とのつきあいは時に何十年にもなります。そのつきあいを通じて、「人にとって本当に大事なものはなんだろう。」「幸せとはなんだろう。」「健康とはなんだろう。」と考えるようになりました。もちろん病気の診断も治療も大事なのですが、本当に大事なことは、それとは別なところにあるのではないかと思うようになりました。
モンスターペイシャントという言葉があります。自己中心的で理不尽な要求をして医療者を困らせる患者です。けれどモンスターは最初からモンスターだったのでしょうか。自分の健康が心配で、何軒も病院を回る患者さんがいます。ドクターショッピングと言われています。患者さんが何を大事にしたいのか、その根っこを確認せずに進んでしまったせいで起こってしまったのではないか残念です。
私自身も20歳代に心身のバランスを崩し、ずいぶんつらい時期がありました。その経験とその後の患者さんとのつきあいから得た生活信条が、「大事なものは何か素直な心で考える。」そして「あるがままを受け入れて前向きに生きる。」ということです。私自身も20歳代に心身のバランスを崩し、つらい経験をしました。その経験とその後の患者さんとの交流から得た生活信条が「大切なものは何か素直な心で考える」「あるがままを受け入れて前向きに生きる」です。 気持ちを平穏に整える「あるがままの心」を皆さんと一緒に考えていきたいと思います。
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